長崎県2日目は平戸のキリシタン関連遺産を訪ねた。長崎市から車で1:50ぐらいで平戸。
長崎は片道3車線道路もあって、運転が難しい。でも高速を利用して何とか田平天主堂に。
この教会は事前予約が必要で、今はコロナの関係で礼拝堂には入れなかった。
宝亀教会堂へ。1898年マタラ宣教師のもと、五島列島宇久島出身の・柄本庄市によって建てられた。
さらに南下して木ヶ津教会。古い木造教会がひっそりと建っていた。
木ヶ津から北西の春日集落を目指す。
春日集落は、潜伏キリシタンが仏教や神道と合同した独自の宗教形態を造って、それを信仰し生活していたところ。そのようなキリシタンの形態をカクレキリシタンと呼ぶ。
春日集落を見下ろす丸尾山はキリシタン墓地遺跡がある。丸尾山まで歩いてみた。
潜伏キリシタンとカクレキリシタンの違いをもっと知りたくて、博物館島の館まで車を走らせる。島の館は生月島にある。生月大橋を渡って島の館。
島の館で学芸員に聞いた話。
バテレン追放令で神父を失った信徒たちは、迫害の中で自分たちで信仰を守っていかなければならないという思いが強く、前任の神父の言いつけを頑なに守っていた。そのため彼らはカトリックの教えをそのままに守って迫害時代を生き抜き、明治以後日本に再び来たカトリック教会へと戻っていった。
このような集団を潜伏キリシタンという。
それに対して、神父もともに潜伏し続けていたキリシタンたちは、神父が迫害下でも生き延びられるようにと教理の方を少しずつ寛容に修正していった。そのため教理の中に周囲で行われていた仏教や神道の習俗が混交し、本来のカトリックとは違った土着の信仰様式を見せるようになっていった。
彼らは、明治以後再びカトリック教会が日本に許された後も、自分たちの信仰形態を守り、既成のカトリック教会には交わろうとはせず今日に至るまで独自の信仰様式を守っている。
彼らを総称してカクレキリシタンと呼ぶ。
島の館の次に山田教会。ここでは十字架の道行きの礼拝が行われており、中に入れなかった。教会の外から十字架の道行きの思いを馳せた。
フランシスコ・ザビエルがやってきて、キリスト教を伝えたときに布教を許した代官の一族の一人である西玄可の洗礼名がガスパル。ガスパル様は禁教令が出ても自分の信仰を守り通して領民をまもり処刑された。
中江ノ島は、平戸の信者にとって岩から染み出す水を採取し、盛衰とする「お水取り」を行う大切な場所となっている。しかし今では「お水取り」はすたれてしまった。
平戸ザビエル記念教会堂は、フランシスコ・ザビエルの3度の平戸訪問を記念して1931年に建てられた教会。