壱岐の時間NO1

 

2023年2月11日~2月12日 ルート図

2月11日

 壱岐の時間がスタートした。今日は壱岐の北の勝本を目指し、その後島の西側を南下する予定だ。

 壱岐は神々が宿る島。まずは住吉神社へ。三韓征伐を成し遂げた神功皇后が三神を祀っているとのこと。ちょうど祝詞を挙げているところに。

境内にある夫婦楠。根元から二つに分かれている。

椿の花がたくさん咲いていた。

 司馬遼太郎が訪ねたカラカミ遺跡は分からなかった。薮を漕いでいったらしいが、グーグルマップで確認しても場所が特定できずちょっと残念。

 気を取り直して古墳巡り。

 双六古墳(そうろくこふん)は全長91mの前方後円墳で、6世紀後半に築かれた。石室への入室はできなかった。

古墳巡りの道を歩いていく。これは笹塚古墳。石室には蝙蝠がいるらしい。

百合畑古墳群。4基の前方後円墳と19基の円墳がある。

鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)は鬼が住めそうな巨大石室。

鬼の窟古墳の玄室。鬼のすみかだったという伝説がある。

鬼のすみかだった古墳の上まで登ってみた。

壱岐風土器の丘にある掛木古墳。6世紀後半から7世紀前半の築造。

玄室に入ったら石棺があった。1枚岩をくりぬいているらしい。

 古墳巡りが終わって、勝本を目指して北上していく。壱岐に来る前に読んだ司馬遼太郎の「街道を行く・壱岐」で知った河合曾良の終焉の地。それは壱岐の勝本である。河合曾良の墓参りも目的の一つである。もちろん司馬遼太郎も曾良の墓に行っている。

 勝本では通り道なので城山公園と勝本城跡に寄ることにした。城山公園と勝本城跡は同じような場所にある。広くもなく歩いて回れる。駐車場に車を止めて公園のほうに歩きだして素晴らしいものに出合い感動した。

 それは河合曾良の出身地である諏訪市から御柱が贈られていたのだ。

 御柱の説明版を読んで、さらに納得。司馬遼太郎が生存していたら、この御柱について語り合いたかった・・・なんても思った。

御柱の横には曾良の句碑が。「行きゆきて たふれふすとも 萩の原  曾良」と刻まれている。

勝本城跡につながる石段。海抜78.9mの山頂部に勝本城が築かれた。豊臣秀吉の朝鮮半島征服への拠点だった。

 河合曾良の墓へは狭い山道を登っていく。司馬良太郎もこの道を登りながら曾良のことに思いをはせたようなことを書いている。

 河合曾良の墓は手前の小さなもの。司馬遼太郎は、さらに、「壱岐の土を踏んで死んだということで、なにごとか満足するところがあったのではないか」と書いている。

 河合曾良の終焉の地に諏訪市から御柱が贈られていたこと、そして河合曾良の墓参りができたことに、自分自身満足した。壱岐の訪問をした甲斐があった。

 さらに北へ。

 これは壱岐の土台石と言われている自然の造形。約2500万年前にできた地層が、海底の隆起によって陸上に現れたもの。海岸沿いに続いている。

 壱岐には「八本柱」という伝説がある。壱岐はあちこちへ動いてしまう「生き島」だったので、流されないように、神様が8本の柱を立て綱でつないだもので、その柱が岩となった。

 「八本柱」の一つに手長島がある。その島には渡れないので陸から見るようになるが、たぶん手長島だろうと予想して、そばにいた漁師に確認したが、その漁師は分からなかった。写真は、多分手長島。

沖には大小の島がある。島の名前を知りたいわ。

八本柱の一つである猿岩。正面から見たら猿には見えなかった。

猿岩から見下ろした入江。きれいな水の色をしている。

黒崎半島にある猿岩近くの観音岩。

 観音岩の近くにある太郎礫・次郎礫。島に住む鬼の太郎と次郎が百合若大臣と戦った際に、投げずに忘れたものだとか・・・!

 半島になっている小牧崎公園のサンセットスポット。今日は曇っていて残念でした。この風景は、天気がいいと空が茜色に染まる。

 暗くなる前にホテルに戻りたい。

 次に目指すは牧崎の鬼の足跡。予定していた御手洗水の滝はカットした。半城湾の先端がとがった岩も薄暗くなりつつありカット。そして超スピードで牧崎公園へ。ここには鬼の足跡とゴリラ岩がある。

鬼の足跡のすぐそばに三角点があった。点名・戸屋(こや)。

鬼の足跡。ぽっかりと口を開けた大穴で大鬼が踏ん張ってできたという。

カエル岩

ゴリラ岩

まもなく陽が沈む。楽しい1日だった。