中通島第3日目

 中通島はいくつかの島と橋でつながれている。昨日行った若松島は若松大橋でつながっている。更に若松島から有福島へは臨海道路でつながり、有福島から日島も連甲斐道路でつながっている。また中通島から頭ヶ島も頭ヶ島大橋でつながっている。これらは新上五島町といい、中通島と若松島を中心とする7つの有人島と60の無人島から構成されているということが、中通島に来て3日目にわかった。

 そして新上五島町には29の教会がある。今回のこれらの島の訪問の目的は、29の教会巡りであった。全部の教会を訪問できるか?残されたのは今日1日。

 いや~教会巡りの目的を達成できたのです。そして最北端の椿公園と灯台まで行くことができた。

2021年12月30日 ルート図

まずはホテルに一番近い青方教会からスタートした。

礼拝堂内。明るくて落ち着く。

鯛ノ浦教会。

礼拝堂内。残念なことに教会信徒しか礼拝堂には入れず、祈りの時間がなかった。

さらに南下して、昨日取りこぼした船隠教会。幾多の艱難辛苦を乗り越えて、信仰を守り通してきたある家族の家から始められた教会。

教会敷地内にあるロザリオの聖母。

礼拝堂内。聖堂全体に家庭的な温かさが感じられた。

どんどん山奥に入っていくと現れた佐野原教会。五島では珍しい海の見えない山の中の教会。

 次には頭ヶ島へ向かった。

 頭ヶ島には世界遺産となった頭ヶ島天主堂がある。事前予約が必要。頭ヶ島天主堂は石造りの教会。石切り島から石を切り出し船で石を運び、教会となった。

頭ヶ島天主堂。

教会敷地内にある島の聖母。

天主堂に隣接するキリシタン墓地。

正面右の島が石切り島。

中通島と頭ヶ島をつなぐ頭ヶ島大橋。

頭ヶ島大橋から相崎瀬戸を眺める。

 矢堅崎を目指してガンガン進む。

木造建築の冷水教会に到着。

礼拝堂内。列柱は角柱、3廊式で蝙蝠天井の落ち着いた雰囲気が印象的。

 冷水教会からさらに北に進んで矢堅目公園。奈摩湾の先端にある奇岩(左のピーク)を望む公園。

 岩の高さは100m。あ~、登りたいけれど風が強いし時間がないので見るだけ。残念。

東シナ海の奈摩湾 。

 少し戻り、最北端の津和崎を目指して北上していく。

青砂ヶ浦天主堂。奈摩湾を見下ろすように西を向いて建っているレンガ造りの教会。

奈摩湾。

 白草峠を抜けて曽根ニ地域へ。ここには赤ダキ断崖がある。

海抜143mで海側は海蝕によって著しく削られ、山腹の表面が現れてるのが赤ダキ断崖。

白草峠に戻り北に進むと曽根教会。1889年無原罪の聖母の日に献堂された。

東シナ海が見える。

曽根教会の礼拝堂。

 北上すると小瀬良地域に入る。ここにあるのは小瀬良教会。番岳に連なる丘の中腹に位置し、椿に囲まれた自然豊かな環境に抱かれ美しく静かな佇まいを見せている。

礼拝堂内。

江袋教会。中通島北部の東シナ海に面し、明治15年に献堂された木造教会。

厳しい禁教の弾圧の中を生き延びてきたこの地域の信徒たちは、この村出身で五島最初の神父となった島田喜蔵師の叙階を記念して、この聖堂を献堂した。

教会から見える東シナ海。

メイン道路から外れ、山道を進んでいくと赤波江教会が現れる。赤い屋根が特徴的。たとえ険しい山間部であっても、湧水が豊富な地を求めて、この地を選んで建てられた。

礼拝堂内。不思議なことに赤く染まっている。

どんどん北上して、次の教会は、仲知教会。中通島北部の山を背に地を這うように建てられた聖堂。老朽化のため修復が急務となった時、わずか70戸の信徒家族が高額な費用を負担しあい献堂を実現させた。

敷地内にある「ファチマの聖母と羊飼い」

礼拝堂内。

教会から見える東シナ海。

中通島の最北端に坐する米山教会。九州本土外海地区から移住してきた潜伏キリシタンが建てた聖堂で、信徒たちはみな信仰心に篤く、漁業従事者が多かった。

礼拝堂内。

敷地内にあるルルドの聖母。

教会から見える東シナ海。

 ここまできたら、中通島の最北端の津和崎灯台まで行くしかない!これもまた山道で不安になってくる。が少し走ったら目の前に現れた。

津和崎灯台と東シナ海。航行する船舶の安全のため重要な役割を果たしている。

最北端まで来たので満足。あとは取り残した教会2つを巡るだけ。

大水教会。この地区で「大水さん!」と呼ぶと、全員が「は~い!」と返事をするという。とても家族的な雰囲気の温かい聖堂。

家族的な雰囲気の礼拝堂。

この教会からの東シナ海。

最後に訪問した教会は丸尾教会。家制度と呼ばれる独自の様式で集落の家々は寄り添って司牧にあたり信仰を守り通してきたが、その後、青砂ヶ浦教会の指導の下カトリック信仰を信奉し、昭和47年に、今の聖堂が建立された。

敷地内のロザリオの聖母。

教会からの五島灘。

 今日回った聖堂は、一様に家族的雰囲気に満ちていた。迫害を耐え抜いた集落は、家族同士また各家族間でのきずなを強め、互いに励ましあっていたのだろう。

 今日の社会の在り方に一石を投じるものを深く心に刻まれた気がした。