2月12日
壱岐には干潮時に陸続きになる小島神社がある。壱岐のモン・サン・ミッシェルと言われている。時間が合えば行ってみようと思っていた。2月12日の干潮は6:54で、干潮前後30分ぐらいは渡れるらしい。ならば行くしかない。
ホテルからは車で30分ぐらい。暗いうちにホテルを飛び出した。探し当てた駐車場で陽が昇るのを待っていると、もう1台車がやってきた。
夜明けだ。ワクワクする。
小島神社への道はもう現れている。貝がこびりついている大小の石が道を作っていた。
歩きずらいのでゆっくりと進んでいく。後から来た二人が私たちが鳥居をくぐるのを撮ってくださった。
この上に神社がある。月がまだ出ている。
島の東側に回り込む。
明るくなりだすと早い。小島神社の鳥居が待っていてくれた。ここをくぐって登っていく。
神主様は予約していないとここにはいないのです。
限られた時間にしか来ることのできない小島神社に別れを告げてホテルへ戻った。ゆっくりと朝食をとり、残された1日を計画的に回っていこう。今日も一部司馬遼太郎の足跡をたどるのだ。
夕方になって知ったことだが、2月12日は司馬遼太郎の命日であった。その日にこうして司馬遼太郎の思いをはせたことは不思議な縁・・・だと思う。
岳の辻。標高212.8mの壱岐の最高峰の山頂。そこには三角点のようなものが。実はこれは「緯度測定標」で1889年5月に海軍水路部によって設置されたもの。国内で最も古いものだそうだ。
山頂からの眺望。南方面で下からガスが上がってきている。
岳の辻は西、中央、東の展望台があり、遊歩道で結ばれている。
中央には折口信夫の歌碑があった。「葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり」と刻まれている。大正10年と13年に民間伝承採訪のために来島した際に詠んだもの。
東展望台からは郷ノ浦港がよく見えた。
渡良三島(わたらさんとう)も確認できてうれしい。
岳の辻から南下していくと南部に突き出たあと岬に出る。岩礁が広がっている。
まだ干潮なので、大小のタイドプールが出来ていた。
壱岐島の最南端の岬が海豚鼻という。木々に覆われた、でも整備されている道を進んでいくと突然に現れた真っ白な灯台。海もきれいだ。
ここが壱岐島の最南端。名前の由来は、地図で見るとイルカの口先のような形をしているからだとか。そうかな?
遠くには漁船。
紺碧の海。そして鍋の蓋のような形の島。
海豚鼻から北東へ進んでいって原の辻(はれのつじ)遺跡。壱岐島の南東部になる。魏志倭人伝に記された弥生時代の環濠集落。
筒城浜は600mにわたって続く白砂がまぶしい。数人の観光客が遊んでいた。
壱岐にもキリシタン弾圧の時に潜伏キリシタンが崇拝した観音像があることを知った。ぜひ行ってみたい!と思い地図を頼りに移動していく。細い道に入ると、道端にひっそりとマリア観音像はあった。花が添えられており、今でも足を運ぶ人がいるのだろう。安らかな顔をしている。
早朝に行った小島神社に通じる道をさらに東のほうへ行くと八幡浦に出る。そこには「はらほげ地蔵」が安置されている。 胸に丸い穴が開いていることから「はらほげ」というらしい。満潮時には頭上まで海に隠れてしまう。干潮時に胸の穴にお供え物を入れ、再び干潮になるとき、お腹のお供え物が海中に運ばれる際に祈りをささげたのが始まり。
お腹の穴を見たら、薬が備えてあった。
八幡浦は八幡半島の一部。八幡半島の先端に突き出した海蝕崖を左京鼻という。その左京鼻からは、玄界灘に奇岩が建っている。壱岐の八本柱の一つ。これが見たかったんだわ。昨日の猿岩も八本柱の一つだ。
八本柱の伝説を調べたら実に面白い。壱岐はあちこちへ動いてしまう「生き島」だったので,流されないように、神様だ島の周辺に8本の柱を立て、綱で繋ぎとめた。柱は岩となり今も現存している。
壱岐には風力発電所もある。
文永の役の新城古戦場へ来た。蒙古襲来で激戦地になった場所だ。
勝本にある浦海海岸へ元軍が上陸。現在の新城神社、当時の平景隆の本陣である樋詰城へ侵攻。100騎余りの武士が迎え討つが大敗している。蒙古襲来により、生き残った島民は100名に満たなかったといわれている。悲しい歴史が残っているのだ。
新城古戦場には悲しい血を思わせる椿が咲いていた。