2018年12月27日
ウクライナ滞在中にチェルノブイリに行きたかった。
個人旅行は許可されず、必ずガイド付きが条件になっている。危険区域だからであろう。
アレキサンドラさんという女性のガイドが迎えに来てくれた。
チェルノブイリまでは車で2時間ほどかかる。
アレキサンドラさんの話を聞いて初めて知ったのは、原発事故地点から30キロ圏内をチェルノブイリということだ。チェルノブイリにはいくつかの村があったがすでに人は住んでいない。
事故を起こした4号機とそれらの村を回った1日だった。
あらかじめ身分登録が必要。チェルノブイリ入り口でパスポートチェックが行われた。
パスポートチェックを受けてゲートをくぐる。チェルノブイリに入ったのだ。
最初の村はZALISSYA(ザリサ)。かつてのメイン通りを歩いていく。
道の両側には廃墟が並び、やがて現れた公共のホール。ここではオペラも上演された。
さらに奥にはティチャーの家。当時はソ連の方針で、同じ職業の人が共同で暮らすようになっていた。
ティーチャーの家の中には重要な書類などが隠されていると思われ、原発事故後家の中を荒らされた。独裁体制下で知識人が恐れられた証拠なんだと思う。
次に来たのは、CHORNOBYL(チェルノブイリ)という村。
ここには事故を象徴するモニュメントが設置されていた。中央に原子炉のチムニーと救済を象徴するキリスト像、右に消防士、左にドクター。このモニュメントは世界の救済と総称されている。
消防士は、単なる火災だと思って防護服もマスクも身に着けずに消火活動を行った。毎年事故のあった4月26日になると、国中の消防士が集まってきて追悼の式を行っている。
北西に進んでいく。
やがてKOPACHI(コパチ)という村に入る。ここには幼稚園があり、子供たちが遊んでいたそのものが残されていた。
更に北西に進む。
PRYPLAT(プリピアット)という村に着いた。ここは船着き場があり、このPRYPLATは川の名前から付けられたという。昔の船着き場と現在の違いは写真で分かる。
少し歩いて、通称ホワイトハウスといわれていた建物があった。
事故前のPRYPLATの写真。
チェルノブイリには遊園地もある。
遊園地のオープンは事故直後の5月1日の予定であった。しかし事故のためにオープンされず、寂し気に観覧車やゴーカートなどが残っていた。
ここでの線量がまたすごい。遊具の一部では290.8シーベルト。どうしてこうなっているのか研究中だそうだ。
原子炉のあった地域ChNPP。
事故機の4号機は石棺に覆われていた。その前には祈りのモニュメント。
ここでの線量は0.3シーベルトだった。除染が進んでいるからだという。
ChNPPにある食堂。
ここで働いている人たちの食堂であり、ここへの訪問者も食事ができる。
セルフサービスで、メニューはスープとサラダ、マッシュポテトとハンバーグだった。
最後にRADAR DUGA-1 に寄った。
ここは名の通りレーダーで観測するためのアンテナが700mに渡ってたっていた。しかし1度としてミサイルを捉えることはなかった。アメリカがミサイルを発射することもなかったし・・。
不思議な空間だ。
他の廃村ではケーブルなどの盗掘が多いが、ここは汚染度がひどいために盗掘されていない。
たっぷりと1日チェルノブイリの旅をした。
自身の汚染度は、最終ゲートを通り抜ける時に線量計で確認する。汚染が基準値を超えている場合は、最終ゲートを抜けてチェルノブイリ外へは出られない。
2度の検査をして通過した。
事故を起こした4号機は、実験中に不都合が生じて事故になったとのことだ。
原因は、ソ連政府が完成を早めるようせっついたこと、研究者が実験の結果をごまかしたこと、実験に携わる技術者たちが専門的な知識を欠いていたことなどが考えられるという説明を受けた。
4号機の事故の様子もVTRで見たが、火柱が上がっているその様は恐ろしかった。政治的なこともあり、付近の住民はその事実をすぐには知らされなかった。避難が遅れたのである。
ソ連はチェルノブイリをパラダイスにしたかった。しかし原発事故により地獄になってしまった。残された廃屋やアンテナは永遠にそのまま。
事故の5年後にソ連は崩壊しウクライナは独立した。ウクライナ国民は、事故以前はソ連政府を恐れ、あるいは信じ切って何も言わなかったが、事故以後完全にソ連政府への信頼を捨ててしまった。被災者はウクライナ国に補償を期待したが、期待で終わっている事実が続いている。
ガイドのアレキサンドラさんは淡々と説明をしてくれたが、その言葉に込められた思いはとても心に響いたものとなった。